3.『日本の軍事制度と軍事思想に対するクラウゼヴィッツの影響』 その4
III 第二次世界大戦後
1 冷戦間
第二次世界大戦後、日本は完全に非武装化され、戦争放棄と非武装を内容とする新しい憲法が制定された。戦後の初期には、戦争研究は排斥され、軍事問題は国民の関心の外に置かれた。したがって、一般世論は、日本の近傍で生起した中国の人民戦争や朝鮮戦争などの国際関係には無関心だった。その一方で、空想的な平和主義が受け入れられ、国連憲章に示された平和の追求が歓迎された。平和主義者は、軍隊や戦争は核兵器の時代にはもはや有効な手段ではなくなったとさえ主張した。
このような中で状況の中で、日本の自衛隊は、戦力なき国軍として設立された。というのは、朝鮮戦争の勃発に際して、米国は、早期の講和条約の締結を推進するようになり、日本を独立させて西側陣営の一員として貢献させようと努めた。1951年9月、吉田茂首相に率いられた日本の代表団は、他の48ヶ国との間で講和条約を締結した(ソ連は講和会議には出席したが調印しなかった)。
その時以降、日本は、憲法を変えていないにもかかわらず、事実上他国における軍隊と同様の自衛隊を保有している。冷戦時、自衛隊は、北海道に対するソ連の侵攻を防衛するために配備していた。日本の北海道と樺太・千島の間には、海上に共通の国境が存在していたからである。ドイツと日本は、冷戦間、中部ヨーロッパと北東アジアにおいて似たような地位に置かれ、冷戦の終結に貢献したのではなかろうか。
1970年代になると、クラウゼヴィッツの『戦争論』は、国際政治の研究者たちによって正当な研究として取り上げられ、研究成果が定期的に出版されるようになった。注目すべき傾向としては、自衛隊で防衛に関心を持つ関係者による古典の研究が見られるようになった。彼らは、軍事史や軍事思想史の研究を進め、その研究成果はクラウゼヴィッツの思想に沿ったものであった。
その理由は、まさに、核大国が相互に戦うことはほとんどないにしても、どちらか一方だけが核兵器を保有し、あるいは両方が核兵器を保有していない場合には、多くの場合通常戦争を抑止できなかったからである。帝国主義の支配に対する各種の独立戦争、宗教戦争、領土紛争または単に現存している国家の統一を保つための戦争に置いて、勝利(又は少なくとも負けないこと)は、これまでと同様に重要であった。1939年以前に比べると、政府が「政治の手段としての」戦争を行うことはより困難になったが、同様に朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、アルゼンチンによるフォークランド諸島の占領やサダム・フセインによるクウェートの併合は、政治の手段としての戦争の明確な例である。
2 冷戦後
冷戦間、多くの戦争や紛争が世界中で生起したが、東西の対立が熱戦に転化することはなかった。ワシントンとモスクワの両政府が、対立が統制できなくなり、米国とソ連の直接対決に至ることを防止したいと望んだからである。このような状況は、1989/90年におけるベルリンの壁の崩壊によって、思いがけず突然終結した。宗教的な熱狂、長い間抑えつけられてきた民族的な対立や解決の見通しの立たない国境紛争によって、新たに暴力と戦争が噴出している。その結果、これまで想像できなかった規模で国連の平和維持活動が増加した。
このような変化は、1990年の湾岸戦争と同時に起こった。湾岸戦争においては、国連の権限委任を受けた多国籍軍がサダム・フセインによるクウェートの併合に対して原状回復のための作戦を行うこととなった。日本は、その平和主義的な政策の故に、単純にこの作戦に参加することができなかった。そして、130億ドルの巨額の資金を多国籍軍の作戦のために支出したにもかかわらず、国際社会の非難を浴びた。
このことから、日本政府は、海上自衛隊の機雷掃海部隊を湾岸戦争後のペルシャ湾に送った。これは、自衛隊の初めての海外任務であった。それ以来、自衛隊の兵士は、新たに政府が制定した国連の平和維持活動法に基づいて、カンボジア、ルアンダ、東チモールあるいはゴラン高原における国連のPKOのような多数の作戦に参加している。また、9.11事件の後、日本政府は、インド洋やイラクに自衛隊の要員を派遣するために、新たな法律を制定した。すなわち、テロ対策特別措置法やイラク人道復興支援特別措置法などである。
このような安全保障環境における重要な変化に対応するために、日本政府は、防衛庁を防衛省に昇格させるという改革を今年、2007年に実行した。これと同時に、国際平和を維持するための多くの作戦は、従来の二義的な任務から、国土の防衛と並ぶ主要な任務に格上げされることになった。つまり、以下のような日本を含む国際社会の平和と安全に貢献する国際災害救援活動、国際平和協力活動、テロ対策特別措置法やイラク人道復興支援特別措置法に基づく活動は、主要任務として遂行されるのである。
防衛力は、侵略を排除する国家の意思と能力を表す安全保障の最終的担保であり、その機能は他のいかなる手段によっても代替し得ない。このことから、政府は、防衛力の適切な整備を進め、その維持・運用を図ると共に、日米安保体制を堅持し、その信頼性を高める努力を行っている。その一方で、日本国憲法は、第9条において、戦争の放棄、戦力の不保持、国家による交戦権の否認を規定している。このような憲法上の理想と防衛政策における現実とのギャップは、どのように考えられているのであろうか。
もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定していないことは明白である。政府は、このようにわが国の自衛権が否定さない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限の実力を保持することは、憲法上認められると解釈している。したがって、わが国が憲法上保持し得る自衛力と自衛権そのものは、必要最小限に限定される。たとえば、政府は、集団的自衛権の行使は、憲法第9条の下で容認されている自衛権の制限を越えるものであり、したがって許されないと考えている。
現在の阿部内閣は、自衛権、特に集団的自衛権における制限のために、憲法を改正することに関心を抱いている。内閣は、集団的自衛権における制限によって、弾道ミサイル防衛または朝鮮半島有事の場合の米国との協力に制約を受けると予想しているからである。
このような新しい国防政策が決定された時に、クラウゼヴィッツに係わる幅広い議論が行われたわけではない。しかし、私がこれまで述べたことは、永続的な平和とそのために憲法9条の維持を願う日本の人々の希望とはかけ離れた防衛政策における現実である。
おわりに
われわれは、次のようなクラウゼヴィッツの命題がいまだに有効性を有している世界に生きている。つまり、時代が大きく変わっても、「すべては武力による決定という最高法則の下にある」、すなわち、われわれは、武力をもってでも、新たな安全保障環境に対応しなければならないのである。
ここで、私は、クラウス・ナウマン大将の本『平和――まだ達成されていない任務』から次のような文章を引用することとしたい。
1991年秋の状況は、政策の手段としての戦争が決して死に絶えてはいないことを示していた。そして、より悪いことには、ユーゴスラヴィアの崩壊が示しているように、戦争はヨーロッパに帰ってきたのである。・・・ドイツは、約40年の間 、安全保障を消費し、輸入してきたが、いまや安全保障の輸出に貢献しなければならない。
もし、われわれが世界の安定と平和に寄与する用意のある国々との共存を望むならば、これらの文章は、現在の日本の状況にそのまま当てはめることができる。
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