3.『日本の軍事制度と軍事思想に対するクラウゼヴィッツの影響』 その3
II 日露戦争から第二次世界大戦まで
1 陸軍の作戦偏重
建軍以来、軍部は、制度的にも単独で国防を担当してきた。彼らは、日露戦争の勝利の要因が作戦の成功のみによると過信し、1907年、攻勢作戦による速戦即決主義を採用してこれを国防方針とした。
陸軍大学校の教育もまた、大軍の作戦術とその訓練に重点を指向した。これとともに、用兵思想の統一を図るため、1914年に『統帥綱領』と称する用兵上の機密教書を制定した。今日、『統帥綱領』を読む者は、これが野戦における第一線軍司令官のための指針にはなり得ても、戦争指導もしくはそれと直接に結びつく戦域軍司令官のためには、ほとんど役に立たない内容であることを見出すであろう。
このことは、次の二つの重大な結果をもたらした。第一は、国家戦略不在の軍事戦略が野戦軍レベルを相似的に拡大したままで建てられるに至ったことである。クラウゼヴィッツの有名な「戦争が政治の継続である」という命題が、忘れられたのではないにしても軽視されたのである。
第二は、野戦軍の用兵に形式主義と硬直化が生じたことである。そして、画一主義が全軍に広がり、クラウゼヴィッツが戒しめた方法主義の陥穴に落ちたのである。方法主義は、下級部隊の能率発揮の見地からのみ認められるが、大部隊の用兵では否定される。そして、自由活発な作戦の研究は停滞した。
このことは、クラウゼヴィッツの著書に関する講義が陸大において一度も行われなかったことにも現れている。陸軍は、作戦の技術的な側面を過度に重視し、理論的な研究をなおざりにし、訓練と規律を最優先の課題として追求した。
2 政・軍関係の理論と実際
日本の軍部における独特な特徴は、統帥権の独立に見られる。統帥権の独立によって、政治と軍事は、法制上同列の地位にあった。したがって、戦争指導に当たって原理的には政治が軍事に優先すべきであると理解はしていても、法制上の政府と軍部との関係は相互の信頼と力関係によって変化させられることになる。
日露戦争の際には政軍関係の逆転は生じなかった。政軍双方の首脳者たちの間に相互信頼感が強く、それぞれがみずからの責任を果たすとともに、不当な干渉をすることがなかったからである。明治天皇がすぐれた調整者の役割を果たしたことも、見落とせない。
ところが、第一次大戦後の政軍関係は、時を経るに従って悪化していった。それは、戦後世界の支配的な平和の風潮に影響を受けた未熟な政党政治が国防と軍事を軽視し、軍の指導者の間に政党政治に対する不信の念が芽生えたからである。しかも、1930年代初期のアジア情勢によって、国防の重視と軍事力の充実が必要であったが、政治にはこれに即応する能力がなく、軍が独自に対応することを要求された。その結果、不可避的に政軍関係の逆転が生起することになった。この過程の中で、軍事指導者が着目し、利用したのはクラウゼヴィッツの退陣を求めたルーデンドルフの思想であった。もとよりルーデンドルフの主張が常に正しく理解されていたわけではなく、軍部の独走とこれを正当化するための経済的、思想的な支援としてのみ彼の思想が引用されたに過ぎない。
前述のように、日本における統帥権独立の制度は、1878年12月の「参謀本部条例」制定による参謀本部の設置を起点としている。これは、軍令機関である参謀本部の軍政機関である陸軍省からの独立を意味している。この規定では、「政府機関」と「統帥機関」が対等・平等の地位に位置づけられている。しかし、日本における天皇の特別な地位によって、参謀本部と軍隊の指揮は、議会の統制を受けなかった。そして、軍隊は、軍人勅諭に示されているように、天皇の直接指揮下に置かれた。軍人は、政治家による統帥権の分野の侵害に対して、熱心にこの特権を防護した。時代の経過とともに、この特権は拡大解釈され、強化されていった。1930年代になると、軍部内において統帥権の独立とは行政権と統帥権との平等として、機構的には政府・行政組織からの統帥部の独立、すなわち政治一般からの軍事の独立として理解されるようになった。
統帥権の独立は、第二次世界大戦前の世界で、日本だけに独特な制度であり、軍国主義の高揚をもたらした。このような第二次世界大戦以前の日本の政治と軍事の関係について、サミュエル・ハンチントンは、「日本における文武関係の法的構造は、本質的に軍の独立という構造である」とし、日本の政府が文武という異なる二つの分野で分裂しており、その原理は「二重政府」にあるとしている。
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