2. 日本とドイツの軍事思想比較 ―統帥権独立の影響― (その2)


II ドイツにおける軍事思想の形成と発展

1 ドイツ第二帝政期の軍事思想

 前項で見たように、ドイツの軍事思想家クラウゼヴィッツの『戦争論』は、現代においては戦争・戦略に関する基本となる文献として評価されている16。中でも、クラウゼヴィッツは、軍事に対する政治の絶対的な優位を説いている。しかしながら、ドイツ第二帝政期の参謀本部が大きな栄光に包まれ、軍の頭脳として称賛される一方で、クラウゼヴィッツのこのような思想は影の薄いものになってしまった。

このような事情について、当時の軍事著作家ヴィルヘルム・リュストフ(Wilhelm R?stow)は、1867年、「クラウゼヴィッツはよく知られてはいるがほとんど読まれていない。われわれは、多くのクラウゼヴィッツの崇拝者を見るが、彼らのだれもクラウゼヴィッツの著作の全体を読んではいない」と書いている17。

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モルトケは、「戦略は臨機応変の体系である。......他の術がそうであるように、戦争にも普遍的に妥当する基準などはない。いずれの領域も規則で才能を代用することはできない」と述べている18。このことは、クラウゼヴィッツの戦争理論のあり方を正しく継承しているように見える。しかしながら、モルトケ自身とその後継者たちは、ますます『戦争論』に戦争遂行における実用的な方法を求め、防御の攻撃に対する優位の思想を否定し、さらに重要なこととして、政治の軍事に対する優越の思想を拒否したのである。

 ドイツ統一戦争後の軍事思想においては、したがって、クラウゼヴィッツの思想の中核的な部分は理解されないか、注目されなかった。また、戦争全体の哲学的・理論的な考察は、ほとんど無視されたままであった19。このような状況は、1873年に出版されたMilit?r Wochenblatt(『軍事週刊誌』)の付録にある以下のような記述によく現れている。

 「ドイツの軍隊では、クラウゼヴィッツは軍事学の第一の権威とみなされている。しかしながら、『戦争論』の哲学的で難解な表現は、きわめて不評であった。また、すべての時代に適用可能な体系の確立は不可能なことが示されていることや、戦争とその本質を科学的に把握し、表現する努力は軽視された。1866年と1870/71年の戦争の偉大な成果によって、このような傾向はさらに助長された。すなわち、厳格な規律、優れた兵器、目的に適合した基本戦術、良好な行進配置、鉄道、実際的な給養方法や電信などによって、戦争は決定付けられるというのである。陸軍に広まったこのような純粋に技術者的な発想は、クラウゼヴィッツの思想とは反対の否定的な結果をもたらし、ドイツ陸軍におけるその後の方向を決定することになった」20。


2 モルトケにおける政治と軍事の関係

 「政治と戦争の関係」について、プロシャ・ドイツ陸軍は、明かにクラウゼヴィッツの教えに反していた。そして、参謀総長のモルトケは、このような思想を創出した者ではなかったとしても、普墺・普仏戦争におけるビスマルクとの対立やみずからの著作から見ればその代表者だったといえる21。

 彼は、次のように書いている。「クラウゼヴィッツ将軍は戦争を他の手段をもってする政治の継続と定義した。政治は、遺憾ながらクラウゼヴィッツ将軍がいうように戦略から切り離せるものではない。......ただし交戦期間中の戦略は政治から可能な限り独立していなければならない。政治は作戦に干渉すべきではない(傍点は筆者)」22。

 同様に、モルトケは、次のようにも書いている。「政治は、戦争を政治的目的達成のために使用する。政治は戦争の開始時と終結時に決定的な影響を及ぼす。すなわち戦争の成り行きに応じて要求を引き上げるか、あるいは水準を下げて妥協した成果に甘んずるかは、政治に委ねられている。戦争の不確実さを考えれば、ただ戦略のできることは、与えられた手段で取りあえずは達成可能な最高の目標に向かい、努力することだけである」23。


 さらに、モルトケの弟子たちの著作には、当時のドイツの世界観(Welt Anschauung)を反映した国家主義的な主張が見られるようになる。ヴィルヘルム・ブルーメ(Wilhelm Hermann v. Blume)大佐(後に歩兵大将)は、その著書の中で、「文明国は利害を平和的に解決することに努力はするが、しばしば不可欠な結果として戦争がもたらされる。このことを忘れた場合、いかなる国家もみずから破壊を招く危険を犯すことになる」と述べている24。ブルーメの著作は、『戦略論』(辻本一貫訳、陸軍大学校、1891年)として日本でも出版されている。また、アルブレヒト・フォン・ボグスラウスキー(Albrecht von Boguslawski)中将は、Der Krieg in seiner wahren Bedeutung f?r Staat und Volk(『国家と国民にとっての戦争の真の意味』、ベルリン、1892年)を書いている。同様に、第一次世界大戦中に参謀副長となったフライターク・ローリングホーベン(Freytag-Loringhoven)は、Krieg und Politik in der Neuzeit(『新しい時代における戦争と政治』、ベルリン、1911年)を書いている。中でも、コルマー・フォン・デア・ゴルツ(Colmer von der Goltz)少佐(後に元帥)は、当時のドイツの置かれた状況とイエナの敗北との近似性を指摘し、Rosbach und Jena(『ロスバッハとイエナ』、ベルリン、1883年)を書いて、国民の意識の改革と新しい軍事力のあり方を訴えた。また、彼は、Die Krieg F?hrung(『統帥』、ベルリン、1895年)と国際的なベストセラーとなったDas Volk im Waffen(『国民皆兵論』、ベルリン、1898年)を書いている。彼は、この中で、「戦争は、人類の宿命であり、国家の避け難い運命である」と述べている25。


 これらの著書は、クラウゼヴィッツを引用しているものの、彼の中心的な思想から離反し、狭い意味の戦略や戦術に焦点が当てられ、あるいはボグスラウスキー、フライターク・ローリングホーベン、ゴルツなどの著書の題名に見られるように、国家主義的な主張が強くなる現象が生起し、これが当時の支配的な流れとなった。

 特に、著名な軍事著作家フリードリヒ・フォン・ベルンハルディ(Friedrich von Bernhardi)将軍は、「防御はそれ自体としてより強力な戦争方式である」というクラウゼヴィッツの命題を批判した26。また、1912年にはVom heutigen Kriege(『今日の戦争』を出版し、「私は、まさにクラウゼヴィッツとは反対に、きわめて限定された実際的な目的を追求した」と書いている27。さらに、彼は、Unsere Zukunft(『われわれの将来』)を書き、これは『ドイツの主戦論』として日本でも出版されている27。その目次の一部「戦うはこれ権利」、「戦うはこれ義務」、「強国かはたまた亡国か」などをみれば、その内容が容易に推測される。


3 デルブリュックと軍人たちの間の論争

 その一方で、ドイツの軍人たちは、みずからの専門分野であると考える戦略に関する解釈でさえも独占し、政治家や学者のこの分野への介入に対して激しく反発した。これは、デルブリュックと軍人たちとの間に起こった戦略論争に現れている。

 ハンス・デルブリュック(Hans Delbr?ck)は、ベルリン大学教授、国会議員、『プロイセン年報』の編集長などの経歴を持ち、この時代を代表する知識人である29。彼は、グナイゼナウの伝記の研究を続け、次にクラウゼヴィッツの研究に進んだ。その後、大学での講義や論文をもとにして大著のGeshichte der Kriegskunst im Rahmen der Politischen Geschichte(『政治史の枠組における戦争術の歴史』4巻、ベルリン、1900?1920年)を書き、その第1巻は1900年に出版されている。デルブリュックは、クラウゼヴィッツを研究する中で、彼が1827年の覚書の中に書いた「二種類の戦争」という概念を発見し、これを引き継いで、「殲滅戦略(Niederwerfung Strategie)」と「消耗戦略(Ermattung Strategie)」の二種類の戦略があると主張した30。

 彼は、過去の偉大な将軍の中で、殲滅戦略の代表者として、アレクサンダー、シーザー、ナポレオンを挙げた。しかし、同程度に偉大な将軍の中で、消耗戦略によって成功を収めた将軍もいる。これらの将軍として、彼は、ペリクレス、ベルサリウス、ヴァレンシュタイン、グスタフ・アドルフやフリードリヒ大王を挙げた。


 論争が起こったのは、デルブリュックが消耗戦略の代表者としてフリードリヒ大王を挙げたからである。ドイツの軍人たち、特に参謀本部の戦史家たちは、殲滅戦略だけが正しい戦略であり、フリードリヒ大王は、ナポレオンの先駆者であると主張した。デルブリュックは、フリードリヒ大王の偉大さは、彼の持つ力があらゆる場合に戦闘を求めるほど大きなものでないことを知りながらも、なお彼の戦争を勝ちぬくためにその他の戦略的原則を効果的に利用した点にあると反論した。デルブリュックの反論は、彼の批判者たちを納得させなかった。フォン・デア・ゴルツやベルンハルディは彼を批判する側に立ち、デルブリュックも喜んで論争に応じたので、これはその後20年以上にわたって続く際限のないものになった。しかし、ナポレオンとモルトケの伝統によって訓練され、短期決戦の可能性を信じていたドイツ参謀本部は、デルブリュックの消耗戦略の概念を否定した31。

 デルブリュックと軍人たちの間の論争は、重要な問題を含んでいる。すなわち、歴史はあらゆる時代において正しい単一の戦略理論などあり得ないことを示している。また、いかなる戦略システムも、それ自体で自立できるものではなく、戦略を政治から切り離そうとする試みが行われるやいなや、その戦略は国家にとって脅威となりうるのである。しかし、王朝戦争から国民戦争への移行、1864年、1866年と1870/71年の戦争におけるドイツの勝利などは、殲滅戦略が近代の戦争における自然な形であることを証明しているように見えた32。実際に、このような理解のままに、第一次世界大戦の戦略は決定されることになる。


4 シュリーフェンの軍事思想

 シュリーフェンがクラウゼヴィッツを賛美し、みずからその弟子であると称した理由は、彼が書いた『戦争論』第5版の序文に現れている。彼は、次のように述べている。

 「『戦争論』の永続的な価値は、その高度な倫理的・心理的な内容に加えて、殲滅戦思想の再三の強調にある。クラウゼヴィッツにとって、戦争は『武力による決定という最高法則』の下にある。また、彼にとって、敵軍隊の撃滅は、戦争において追求し得るあらゆる目標の中で常に最高位に位置している。19世紀初頭における戦乱の時代の経験に即したこの訓えは、われわれをケーニヒグレーツとセダンへと導いた」33。つまり、シュリーフェンは、『戦争論』における殲滅戦思想の故にクラウゼヴィッツを賛美したのである。シュリーフェンが『戦争論』から読み取ったものは、大規模な攻勢作戦によってのみ、敵の軍隊を撃破し、その抵抗意志を破砕できるということであった。そして、このような誤ったクラウゼヴィッツの理解は、当時の多くの軍人たちによって支持されていた34。

 シュリーフェンの戦略思想には、もう一つの特色があった。クラウゼヴィッツとモルトケが「摩擦」の予測し得ない効果と敵の「自由意志」を認めていたのに対して、シュリーフェンは、敵を自己の作戦構想に実質的に従わせることができると主張した。彼は、攻勢をとることによって主導性を獲得するとともに、敵の翼側に戦力を集中することによって敵を混乱させるばかりでなく、敵から実行可能な戦略オプションを奪い去ることを意図した。この計画では、動員からクライマックスをなす戦闘に至るまでの全過程が厳密に統制されていなければならず、スケジュールと決められた作戦目的を厳格に遵守することが必要であった。彼は若干の予期せぬ状況は認めていたが、彼の統制された戦略のシステムでは、事前の計画と中央集権化された指揮によって、摩擦をできるかぎり排除することを追求するものであった35。すなわち、シュリーフェンやその弟子たちは、戦争における摩擦をできる限り予測し、克服するための教科書を求めた36。そして、このように戦争を軍事的な側面からのみ考察しようとする思想が優勢になったことが、シュリーフェン計画の発想と1914年のマルヌへの前進につながったといえる。


5 シュリーフェン計画の問題点

 前述のように、ドイツにおける統帥権独立は、軍隊に対する議会の影響を排除することを目的として実現された。その一方で、軍隊は、必ずしも政治的な動機を有していたわけではなく、ドイツ統一戦争における功績による当然の結果として特別な地位が認められたものと受け止めていた37。一方で、ドイツ参謀本部の地位に向上によって、対外的な困難な問題であっても、軍事的に解決しようとする機運が強まった。すなわち、政治と軍事の分離という危険な傾向である。このような事例は、実質的に第一次世界大戦のドイツの戦争計画となったシュリーフェン計画にみられる。

 大モルトケは、いずれかの戦線で迅速に敵を撃破する攻勢作戦によって二正面作戦という問題を解決することに次第に悲観的になっていったが、シュリーフェンは、きわめて大胆な発想による計画を発展させた。シュリーフェンが退役する直前の最終案(1905年12月28日付)では、全兵力の8分の7を西部戦線での攻勢に集中し、軍の主力を北部のルクセンブルクとアーヘンのあいだに展開させ、ベルギーとオランダを通過して英仏海峡沿岸に向けて前進させ、フランス軍のフランス軍の北翼を迂回・包囲し、セーヌ河を越えてパリの南西部から巨大な車輪のように旋回するというものであった38。

 1905年から1914年までの間には、ヨーロッパでの全面戦争への潜在的な当事国間の関係や個々の大国の関与の度合いに関して多くの大きな変化があったが、シュリーフェン計画の中核となる部分には変化がなかった。つまり、シュリーフェンとその後継者は、政治的な次元をまったく無視して純粋に軍事的な計画を策定したのである。驚くべきことに、計画には(代替の計画もなく)政治的な柔軟性が欠如していたので、ドイツは、どこでどのように戦争が始まろうとも、フランスとベルギー(小モルトケはオランダの侵略を取りやめた)に対して即座に全面攻撃を行うことになっていたのである39。


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