2. 日本とドイツの軍事思想比較 ―統帥権独立の影響― (その1)
はじめに
ドイツ統一戦争後のドイツと日清・日露戦争後の日本には、軍事制度や思想において多くの類似点が見られる。中でも、ドイツと日本の軍事制度は、軍令と軍政が分離されている二元主義にその特色があった。軍令とは軍隊の指揮・運用に関する事項であり、軍政とは軍事力の建設・維持に関する事項である。そして、軍令は、皇帝・天皇の大権として政府・議会の統制を受けなかった。このような制度は、統帥権の独立と呼ばれる1。日本における二元主義の軍事制度は、明治維新の初期の時代にプロシャ・ドイツから導入されたものである。統帥権の独立は、昭和期の軍隊が政治に関与するための手段となり、最終的には日米戦争における敗北をもたらしたとされる2。また、このような統帥権独立の制度のもたらした弊害については、政軍関係などの視点から広く議論されている3。
一方、第一次世界大戦前のドイツと第二次世界大戦前の日本においては、政治と軍事の地位が対等であるという理解や、政治は軍隊の作戦を容易にするために努力すべきだという作戦至上主義が強調されていた。ドイツ統一戦争における勝利の結果、ドイツ参謀本部の権威は飛躍的に高まり、戦略の策定や戦争の指導に政治家をまったく関与させないことが伝統となった。日本は、明治維新による近代国家建設の時期に、ドイツの軍事制度を取り入れている。日本の近代化努力は、日清・日露戦争における勝利に結びついた。その反面、戦争における勝利によって、ドイツと日本では政治に対する軍事の優位がもたらされる要因となった。
ドイツの軍事思想家であるクラウゼヴィッツは、先に挙げた軍令と軍政の区分を明らかにした外、政治と軍事のあるべき関係を明確にしている。しかしながら、ドイツ統一戦争で軍事的な勝利をもたらしたモルトケ参謀総長とその後継者は、軍事に対する政治の優位というクラウゼヴィッツの思想を明らかに拒否していた。日本が取り入れたドイツの軍事思想は主としてドイツ第二帝政期のものであり、モルトケとその後継者の反クラウゼヴィッツ的な傾向を強く反映している。そして、統帥権独立の制度は、このような軍事思想の形成と発展に大きな影響を与えているように思われる。
そこで、本稿においては、統帥権独立の制度下でドイツと日本の軍部が発展させてきた軍事思想を解明し、これが何をもたらしたかを考察することとしたい。
I 統帥権独立の経緯と問題点
1 ドイツにおける統帥権独立の経緯
フランス革命によって欧州大陸に植え付けられた立憲思想は、1914年以降の復古主義と反動的な抑圧政策によってほとんど停滞していた。このような中で、1821年、ミュッフリンク中将が初代の「陸軍参謀総長」に任命され、陸軍大臣と同列の地位に置かれたことにより、ドイツにおける二元主義の制度が芽生えた。これは、参謀本部の地位の向上を意味したが、まだ統帥権の独立は達成されていなかった4。
その一方で、立憲思想は、1840年代の革命・動乱によって再び台頭し、憲法の制定が促されて国民は政治的な自由を得るに至った。ドイツにおいても、当時のヨーロッパ大陸で君主国憲法の模範とされていたベルギー憲法を模範に、1850年に憲法が制定された。この憲法は、したがって、軍事における二元主義を否定し、軍令と軍政のいずれも国務大臣の管轄下に置かれる一元主義をとっていた5。
しかし、1948?49年の革命の動乱が収まると、1859年、国王に直属し、議会の統制を受けない機関として軍事内局(Milit?rkabinett)が創設され、陸軍大臣に属する人事権が軍事内局長に移管された。また、1861年、勅令によって軍令に関しては陸軍大臣の副署を要しないことが定められ、統帥権の独立に道が拓かれた6。
1857年、国王個人業務課長に任命され、その後初代の軍事内局長となったマントイフェル少将は、それまでまったく無名だったモルトケを参謀総長に推薦した。モルトケは、1858年から1888年までの30年間参謀総長の職にあり、その間のドイツ統一戦争に勝利してドイツ参謀本部の名声を高めた。このようなドイツ参謀総長の地位の向上によって、1883年5月20日付けの勅令をもって参謀総長の帷幄上奏権が認められ、ドイツにおける統帥権の独立が確立された7。
このように、ドイツにおける統帥権の独立は、保守的な皇帝・宮廷と議会との軍隊をめぐる駆け引きの中で導入され、その目的は軍隊に対する議会の干渉を防止することであった。したがって、統帥権の独立は、基本的に政治と軍事の分裂をもたらしかねない制度だったといえる。このような制度の欠陥は、ビスマルクのような有能な政治指導者の存在によってのみ克服が可能だったが、ビスマルクはその後解任されてしまった8。
2 日本における統帥権の独立とその問題点
日本における統帥権独立の制度は、1878(明治11)年12月の「参謀本部条例」制定による参謀本部の設置を起点としている9。これは、軍令機関である参謀本部の軍政機関である陸軍省からの独立を意味している。この規定では、「政府機関」と「統帥機関」が対等・平等の地位に位置づけられている。しかし、日本における統帥権独立の制度は時代とともに拡大解釈され、強化されていった。そして1930年代になると、軍部内において統帥権の独立とは行政権と統帥権との平等として、機構的には政府・行政組織からの統帥部の独立、すなわち政治一般からの軍事の独立として理解されるようになった10。
ドイツでは、第一次世界大戦での敗北によって統帥権の独立も廃止された。したがって、第二次世界大戦前の世界では、実質的に日本だけがこの制度を維持していたということができる。このような第二次世界大戦以前の日本の政治と軍事の関係について、サミュエル・ハンチントンは、「日本における文武関係の法的構造は、本質的に軍の独立という構造である」とし、日本の政府が文武という異なる二つの分野で分裂しており、その原理は「二重政府」にあるとしている11。
さらに、日本の場合、統帥権独立の制度に基づいて、「政略」と「戦略(統帥・作戦)」を対等と位置づける「戦争指導」の概念が生み出された。これは、後述するように、大正から昭和にかけての『統帥綱領』に具体的に記述され、しかもその後の改訂とともに強調の度合いが強められた12。そして、これが、昭和期の軍人の通念・信念として定着したのである。また、昭和7年には、陸軍大学校の学生教育のために『統帥参考書』が発刊されている。『統帥参考書』には、「統帥権の独立」が強調され、「政治機関と統帥機関とはあくまで対等・平等の地位にある」とされている13。このような軍事思想のもとに育った軍人が、国家指導者となって戦争の計画と実行を実際に担うことになったが、「政戦略の一致」の必要性を痛感したものの、それを実現することはまったく不可能だった。
3 クラウゼヴィッツの軍事思想からの乖離
『戦争論』の記述にあたってクラウゼヴィッツが設定した主要な目標は、戦争という複雑な現象を社会的・政治的な幅広い文脈の中に位置付けて、論理的・体系的に分析し、解明することである。そして、クラウゼヴィッツは、「戦争とは他の手段をもってする政策の継続にすぎない」という結論を導き出した。つまり、戦争は、政治という全体の一部であり、いかなる状況においても独立に存在するものではなく、常に政策のための手段とみなされなければならないというのである。
クラウゼヴィッツは、最終的な結論に基づいて、政治と戦争の関係における規範を明確にしている。すなわち、「戦争は、政治という指導的な知恵者の支配下に置かれている。戦争は政治的目的から発生するということを考えるならば、戦争の指導に当たって、戦争に生命を呼びおこしたこの最初の動機に、第一の、しかも最高の考慮を置くのは当然」なのである14。さらに、クラウゼヴィッツは、戦争が他の手段による政策の継続である以上、「戦争における重大な事象の判断や計画を純粋に軍事的な判断に任せるべきであるという主張は、許し難い、それ自体危険な考え方である」と述べている15。これ以上明確な政軍関係の規範に関する表明があるであろうか。
しかし、後世の人々は、このようなクラウゼヴィッツの考え方に同意しなかった。軍人にとって、ナポレオン戦争とその絶対的戦争の印象はあまりにも鮮明であり、クラウゼヴィッツの本当の主張は誤解されるか、無視されたのである。
そこで次に、第二帝政期のドイツと明治維新以降の日本の陸軍における軍事思想の形成と発展過程を考察する。
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